CMようこ2

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菅野よう子×GRAND FUNK スペシャルインタビュー1

ー 昨日まで海外行かれてましたね、どちらに、なにしにいかれていたんですか?
アメリカに10日間ほどいってました、西海岸と東海岸で、1日2公演のペースでいろんなショーみてきました、
エルトン・ジョン、シェールのシルク・ドゥ・ソレイユとの共演、ベット・ミドラー、セリーヌ・ディオン、デビッド・バーン、、、なんかいろいろ見たりしてきたんだけど、その中でもベット・ミドラーが圧巻だった!
こんなすごいのいまだかつて観たことないってくらい。
どピンクな舞台、セクシーな姉ちゃん達が後ろでほとんど何も着てない姿で足あげてるのに、60代のベット・ミドラーから目が離せない!端から端までカーッとか所狭しと走り回ったり、人魚姫の格好で車椅子のってでてきたり(笑)、そんな感じで観客盛り上げまくって散々っぱら笑わせたかと思いきや、真っ黒でシンプルなワンピースでハイヒールも履かずにでてきて堂々とバラード(Rose)歌ったりして、、かっこいいー!みたいな、、とにかくもうすごくて、、、、これは私には無理っていう(笑)
叩き上げ、本物のショービジネスの世界で、決してルックスが売りではない彼女があそこまでやり遂げてるって、生半可なことではない。機会あったらぜひ観に行った方がいいよ、すごくいいから。たまげましたホントに。
ー そりゃすごそうすね(笑)ぜひ一度観てみたいです。
今回はCMようこ特設サイト立ち上げ、またCMようこ2リリースに際して、
グランドファンクとしては、改めてではあるのですが、菅野さんの人とナリ、という所までさかのぼって、
ロングインタビューをさせていただきたいと思ってます、よろしくお願いします
はい、よろしくお願いします
ー 一番最初の音楽体験について教えてください
何回も取材で話してるから知ってるでしょそれ? ま、いいや(笑)
2歳半のときに親戚の家に行ったとき、そこにピアノが置いてあって、ピアノから全く離れなかったわたしをみて両親がピアノ買ってくれたのが最初。自分でもその時のことは覚えてる。
実は、最近になって親に聞いたんですけど、
両親としては、将来主婦になったときに、手に職でもないとコーヒー1杯も自由に飲めないだろうから、近所の子供にピアノを教える先生になるように、という理由から私にピアノを買い与えたらしく、、、ピアノ教師になってくれなくてガッカリしていると(笑)
ー こんなすごい音楽家になられたのだから、なにもガッカリしなくても(笑)、、いやいや、それは知りませんでした。それからは?
それから自己流でピアノ弾いたり大きな声で歌ったりして、両親に恥ずかしいからやめなさい、といわれ(笑)。通ってた幼稚園がクリスチャン系だったーーとくに信仰心があるわけではないんですがー 賛美歌を歌うわけですよ、その賛美歌がすごく好きでした。歌集の最初のページに「みだりに主の名を唱えてはいけない」って書いてあるんだけど、それを小さな私は「人前では賛美歌を歌ってはいけない」という意味だと勘違いしてしまっていて、、でもすごく好きで歌いたかったから、家の押し入れの中で布団にくるまって「も~み~の木~」とか歌ってました(笑)
ー 菅野さんにとって賛美歌は禁断の果実だったわけですね。では、はじめて作曲したのは?
それも幼稚園の時。近所の○○くんがかっこいい、すき、みたいな歌を作ったのが最初だとおもう。
親が厳しかったから、そういうこと家では言えなかったのね、でも歌にすれば堂々と大きな声でいえる、みたいな。
ー 小・中学生の頃は?
学生を対象にした県の作曲コンクールみたいのに学校代表で出されて、いつも優勝していた。
ー どうやったら毎回優勝できるんですか?
そうしたコンクールでは当時、制限時間内に、用意された課題詞に対して曲をつけるか、
もしくは、モチーフの中からどれか選んで曲にするか、
課題としてはその中から詞でもモチーフでも、自由にひとつ選んで作ればいいんだけど、
わたしは1時間もあれば(ひとつと言わず)全部できたから
そこにある詩には全部曲のせて、モチーフもそれぞれ展開して、さらにはDメロまで作ってた。
そういう、、審査員からすればあからさまに頭にくる子供(笑)
ー ・・・すごい子ですね。「ガラスの仮面」の主人公、北島マヤみたいです(笑)
その頃、審査員だった作曲家の芥川也寸志さんに見初められて指導を受けたことがあるとか?
はい、でも作曲そのものというか、、、
例えば作曲技法とか、和声学とかには全く興味がなくて芥川先生から習う事はなかったんだけど、、、
その時に教わったのは、例えばショパンのピアノの曲を弾いてると、
「ここの親指で弾くところのメロディは、どんな音で演奏したいか?」とか聞かれるわけ。
ここはホルンのブーンと伸びる音でやりたいです、っていうと、
「では、これからそういう気持ちで弾いてみなさい」と言われて。
つまりは、ピアノ曲であれ、自分なりに他の楽器のパートを想定して演奏してみるという、そういう教わり方をしたんだよね。
それがきっかけになって、ただのピアノ曲弾いていても頭の中では別の音も同時に鳴りはじめて、
だからその一言で、あ、そっか!って全部見えた気がする。
ー なるほど、つまり菅野さんのアレンジの原点、なんですね
そうだね。
ー 大学は文学部に進まれたんですよね
はい、一週間しかいってません(笑)
ー 大学在学中に「てつ100%」に参加されたんですよね、その経緯など教えてください
大学の軽音楽サークルに入っていたんだけど、ある時、てつ100%がコンテストに出場するために、
キーボード奏者がいないからだれか貸してくれといってきて、その時わたしが借し出されたのがきっかけ。
で、初めて会った彼らとそのコンテストに出たら優勝しちゃった。
そのコンテストの優勝賞品というのがレコード会社との契約、だったんです。
でも実はそのコンテストちょっと出来レースぽいところがあって、
他のあるバンドがあらかじめ優勝を約束されてた。
コンテストでの出番もラストから2番目とか美味しいところに決まってたりして。
で本番やってみたら、頭から3番目あたりに演奏した私らが群を抜いてお客さんにウケてしまって、
そのあまりのお客さんの盛況ぶりで、私らを優勝させざるを得ない状況になってしまったの。
その後ソニーからデビューすることになりました。
私はそのコンテスト用の一時的な「借りモノ」のつもりだったので、あー、よかったですね、おつかれさまでした、
みたいな感じだったんですが
レコーディングするのも優勝した時の曲だったし、そのままメンバーとなって、、ですね。
そこからブラスのアレンジをしたり、バンド用の曲も作ったりしはじめました。
ー その頃からバンド活動と並行してゲーム音楽制作をされるようになったんですよね、どういう経緯だったんですか?
そうですね、確か、おニャン子クラブのバックをやっていた時に、ディレクターさんから声をかけられたのかな?
ー ええ!菅野さん、おニャン子クラブのバックで演奏してたんですか!?
あ、知らなかった?そうですよ、
おニャン子クラブの代々木体育館での解散ライブでは最後のバラードがんがんピアノ弾いてましたよ(笑)
解散で、メンバーみんな泣いちゃってなかなか歌いだせず、延々イントロを演奏した記憶があります(笑)
その時のバンドのメンバーというのが、今も一緒にやっている人たちとほぼ同じメンバーなんです。
ー ははー、そうだったんですか
そんな流れでその頃はツアーのサポートメンバーの仕事をよくやってました、工藤静香さんとか、今井美樹ちゃんとか、小比類巻かほるさんとか、バンド同士の横のつながりで、いろんな方々と一緒にツアーまわって。
年間60本くらいはやってた。ライブ楽しいなーって。
ー なるほど。それでそのディレクターさんにゲーム音楽の仕事を紹介してもらったんですね。
菅野さんのゲームの音楽の代表作といえば光栄の「信長の野望」ですね、とっても良い曲が多い。
当時のゲームは2音くらいしか同時に鳴らなかったのよ(笑)、あ、これしか音鳴らないんだ、みたいな。
でもその中でなんとか表現しようと試みてました。
その時、すぎやまさん、、、、、
ー ドラゴンクエストの作曲で有名なすぎやまこういちさん、、ですか!?あの巨匠の。
そうそう、すぎやまこういちさんに音楽をすごく誉めてもらって、
ちょっと君おいで、と御呼びたてを受けましてお話をさせてもらったことがあるんです。
その後、彼の引き立てで「日本作編曲家協会(JCAA)」に入会したんですが、
そこに羽田健太郎さんとか、前田憲男さんとか、宮川泰さんとかいわゆる全部いたわけですよ、偉い先生達がみなさん。
その作編曲家協会のコンサートというのがあって、
一人1曲披露したり、テーマがあるときはそのテーマに沿ってアレンジ演奏したりするんですが、
私も何度か一緒に出させてもらって、、、
私たちって同業者同士で会って話する機会ってほとんどないじゃない?作曲家同士で現場がかぶることってないから。
だからこのときの楽屋で巨匠とダベったりしたのは、私にとって稀少で面白い経験でした。
それまでポップス系の楽典的なことは勉強してなかったから、
ハネケンさんつかまえて、「四声のハーモニーってどういうバランスでやるんですか?」って聞いたりして。
「一番上を強く、真ん中弱く、ベースは強めのバランスでやるんだよ」、へー!なるほど、みたいな(笑)
また、同じオーケストラでも編曲家によって全然鳴りが違うっていうのもその場で聴いて知った。
ー プロの作編曲の技法的なことをその楽屋で初めて学ばれたってことですね、それにしてもすごい楽屋ですねそれ。
明日の締め切りの宿題を隅っこでやってる人がいたり、
ダジャレ言ってわーっとか盛り上がって飲んだくれてる人がいたり、めちゃくちゃファンキーな楽屋(笑)
私は一番下っ端だったんで、お一方ずつ挨拶してまわって、ギャラって幾らもらえばいいんですか?って聞いたり・・・(爆笑)
ほんといろいろ社会勉強させていただきました。
あと、田中公平さん、千住明さん、渡辺俊幸さんなどの同世代の作家の方を知ることもできた。
みなさんとてもすばらしい、すごく好きな作曲家たちです。
ー そしてCMの仕事、GRANDFUNKと出会うんですね、その経緯は?
金橋さん(音楽プロデューサー、GRANDFUNK代表取締役会長)と出会ったのは、バイオリンの方のバックでスタジオミュージシャンとしてスタジオに呼ばれていったときが最初でした。
伴奏弾き終えた後、金橋さんから「きみ曲も書くの?」と聞かれ、、
まあ、なんちゅーか、渋谷あたりで声かけられたみたいな感じで(笑)


ー (笑)菅野さんと最初に出会った時のこと、ぼくも金橋さんに聞いてみたんですが、
その時の菅野さんのコード・プログレッションに稀なる才能を感じたと。
自分が鍵盤奏者だったっていうのもあってすぐにピンときたそうです。
わーお。よくぞ見つけてくださいました。
作品集聞かせてくれといわれたんですが、そういったものを私は持っておらず、しかたなくその前に信長の野望で作った曲を聞いてもらったところ最初からいきなり大きなCMの仕事をいただきました、まずはお試しで、ではない規模の。
実はCMの仕事はその時が初めてというわけではなく、それ以前にも2度ほどやったことがあったんです。
ただその時はCMってなんだかあまり良い印象はなくて、
なんかもう業界ってタバコ臭いし、態度も横柄な人がいたりして、苦手だな、と思ってたんです。
だからGRANDFUNKから仕事きたときも、あの感じだったら嫌だな、と思ってたんですが
金橋さん自身は全然そんな人ではなかったし、最初からすごく大事にしていただけました。
ー 実際のCM音楽制作なんですが、菅野さんの場合どうやって作っていくんですか
打ち合わせで直接相手の顔みるまでは何も考えないでおいて、なるべく頭の中真っ白にしておく、
先に勉強して行くのはあまりいいことないかも。
それで打ち合わせの場に行って、そこで監督や、企画した人の口からその想いを聞いてから考えはじめることが多いかな。
で、その打ち合わせの席で曲できてしまうこともあるし。
ー 打ち合わせの途中で誰かが話してる最中から、菅野さん下向いて譜面書きはじめたりするから、
びっくりする人けっこういますよ(笑)
先日の資生堂の音楽打ち合わせの時も、監督が絵コンテを見せながらいろんな言葉で説明している途中に、
「うう、、、頭の中で5曲ぐらい鳴ってる。。。」とかいってましたもんね。監督あぜんとしてましたよ、
5曲も、、ってそれどう収集つければいいのか、こちらが真っ白になってしまいました(笑)
そういう時はイタコになってるみたいな感じなんだよね。
たとえば監督が作りたい世界があって、それを伝えるために一生懸命ことばなり、態度なり、表情で表してるのをぺろーんと自分に落とし込んで、それが曲に訳されて出てくる、自動書記みたいな(笑)
ー GRANDUNKとの仕事で菅野さんはCMの世界で超売れっ子としてブレイクするわけですが、   当時の様子をうかがわせてください
1番忙しいときで、CMの録音が1日に7本って時があった(笑)、銀座のスタジオで朝8:30から夜中までずーっと。
確かツアーの合間で、地方から前の晩遅く帰ってきて、寝ないでスタジオ行って、7本って、、さすがにあれは、、、、。
ー そんなに?信じられません(笑)
まあ、7本てのはその時くらいだったけど、1日3本とか、ダブルヘッダーは当たり前でした。当時って今と違って全部生の録音だったから、進行も速かったんだよね。
次々にどんどん録っていって、お客さんにOKもらって。
だからクオリティ保持しつつもそれだけの量こなせたと思う。
でも打ち込みが現場に導入されるようになってから、やっぱりそこまでたくさんは出来なくなってきたね。
ー Pro Tools以降、直しがきくようになってから、ということですね
そう、細かい調整が後からきくようになってからね。
あと、これは私の話ではないのだけど、
別の作家さんのCM仕事で、大きなスタジオに60人オケ入れて録音している真っ最中にも関わらず、
コントロールルームにいるお客さんから「この曲だめ」といわれた(!)
という、、それってものすごく大変なことじゃない?
大勢のオケ指揮して録音したあとで、ちょっとお待ちください、
といってアレンジャーがコントロールルーム行ったきりなかなか戻ってこない、
ガラス越しに「あーもめてるもめてる、あーがっかりした顔してるな」って。(笑)
それで戻ってきたと思ったら、おっと譜面回収になったぞ、みたいな。
はい一旦解散、で1時間後にまた集合してください、その間にその場で全パート書き直し、、
実際それだけの数のミュージシャンの録音を、別日で仕切り直しなんてやったら予算が倍くらいに膨れ上がってしまう、
そんなことはもちろん不可能なわけで。。。
あくまで締め切りの中で仕上げなければいけない、という大変にシビアな状況はよくあった。
実際私もその同じ監督の仕事したとき、40人くらいのオケ録ってて、今なにかいわれちゃったらやばいなーって時にやっぱりちょっと違うと言われた事があって、その時はその場で直して切り抜けましたが。
だからこの仕事、生半可な心臓では、びびってる間に終わってしまう。こう見えて、わたし相当の叩き上げです(笑)
明日までに曲作って、みたいな突然の発注にも対応してたし、慣れたよ、そういうのは。
ー 海外録音も沢山こなされてますよね
N.Yは何度もいったし、チェコ、ワルシャワ、あとロス、サンフランシスコ、HITACHIでのカンボジア録音とかね。
ハードなスケジュールが多くてね、0泊3日みたいのがほとんど(笑)
空港ついてそのままスタジオ直行、録音して、出来上がったもの持ってそのままトンボ返り、
ホテル予約したけど結局チェックインできずじまい、みたいな。
そんな中でも印象的だったのが、今回のCMようこ2にも収録されている"GREEN(96' Suntory limited 鏡月グリーン)"の韓国での録音の時のこと。
当時の韓国は日本人に対して今ほどオープンでは無い状況だったのね。
最初そのCMの音楽企画は、ある韓国の民謡(アリラン)をアレンジして韓国の方に歌ってもらうというもので、
その準備をしていたんですが、その民謡、よく調べたら、日本と韓国の戦争の体験を含んでいる詩だったの。
録音の前日にそれが判明して、これは文化的にまずい、と。
日本でこの曲をCMで流すのは意味合いとしておかしいということになってしまったんです。
土壇場で「どうしよう、、、?」ということになって。。
とはいっても歌い手のブッキングやら録音の手配は進んでしまっていたので、
わたしと音楽プロデューサーはとりあえずソウルに入って段取りを進めつつ、
その裏でクライアントさんには判断を仰ぎつつ現地で待機していたところ、録音前日夜9時くらいに日本から連絡がきて、
「やっぱりその民謡の録音は中止してください、代わりにオリジナル曲を制作してください」
と言われたんです。えーっ!これから曲作るの?明日の朝10時から録音じゃん!って(笑)。
その場にはもう明日の歌い手の韓国人の方が打ち合わせでいらしてるわけですよ。事務所の取り巻き15人付きで。
「急ですみませんが、オリジナル新曲を歌っていただきたいんですけど、、」
と音楽プロデューサーが先方に切り出したはいいけど、
ちょちょっとまって、歌だよね?歌詞はどうするの?と。
プロデューサーが、「あっ」とかいって(笑)。仮に明日までに私が曲書いたとしても、詞が間に合わない。
そうしたら「じゃあ歌い手さんに詞書いてもらおう、みなさんにちょっとこのまま待っててっていうから、
今から1時間以内に曲書いてくれない?たのむ。じゃあ言ってくるから」って、おいおい。
それでその場で1時間で書いたのがこれ(笑)
ー (驚)・・・そんなハードな状況で書かれたとは到底思えない、完成度の高い美しい曲ですね
またその歌い手さんがその場で奇跡みたいに歌詞をすぐ書いてくれて。。。
ひとまず収集ついたころはすでに深夜。
まだなんにも食べてない、せっかくソウル来たんだし、プロデューサーとなにか食べに行こうってことになり、
深夜に一軒だけ空いてて入った店がこれまた、なにが出るのかわからないお店で(笑)
なんにも言ってないのに鍋がドンってでてきて、
注文もしてないのに肉がでてきて
何の肉なのかわからないままそれ食べたりして、未だにあれが何の肉だったのかわからない(笑)

当時の韓国は日本人に対して今ほどオープンでは無い状況だったのね。
まだ暗かったその街並と、お互い人種的に感じる疎外感のようなもの、そしてその歌い手の方の声の美しさと。。
今思い返してもすごく印象的な海外録音でした。
海外での録音は大抵の場合、日本から演奏者連れて行くわけにもいかないから、現場で言葉が通じない状況で、現地のミュージシャン集めて、自分で指揮して、ディレクションもその場で身振り手振りでしなければならず、それでもなんとかする(笑)。
そういった部分でも、わたしすごく叩き上げです(笑)
ー 菅野さんは言葉が通じない場所でも、天才的なコミュニケーション能力発揮されますよね、
どんな国でも安心して連れて行けます(笑)
CMでも数度、とくにアニメの録音では頻繁にワルシャワ・フィルハーモニック・オーケストラを使われますが、、
ワルシャワにはもうかれこれ50回ぐらいは行ってるのでは、、、
メンバーも全員分かっているし、本当に気心がしれた関係なんです。
最初の頃は、ポーランドはまだ社会主義で、雰囲気も暗くて、もちろん言葉の壁もあったけどね。
オーケストラの音は素晴らしいんだけれども、、あいさつの声かけても、しーん、みたいな。最初の10回ぐらいはそうでした。
その後、社会主義が崩壊して、だんだん情報が行き渡るようになって、みんながおしゃれになってきて、今では随分変わったね。
ポーランド人ってすごくまじめで、恥ずかしがりで、ほめられるとむしろダメになるタイプ、人が良くてすごく温かい。
日本人に近いかも。
アメリカでは持ち上げないとノリよくならなかったりするんだけど、ポーランドでそれやると逆にふにゃ~ってなっちゃう。
わたし小さい頃、自分のオーケストラを持ちたいって言ってた時期があったんだ、ポール・モーリア・グランド・オーケストラ、みたいな、そんな意味合いのやつね。
ワルシャワのメンバーには「よう子のオーケストラだったらいつでもなってあげるよ、うちの常任指揮者になってもいいよ」
と言ってもらったりしていて、夢がかなってほんとうにうれしかった。
ー うわわ、ということはワルシャワ・フィルが菅野さんのマイ・オケってことですね、すごい。
そこまでワルシャワで認められた日本人はおそらく菅野さんが初めてでしょうね